表裏を貫く刺繍の両義性―森本凌司の作品について

つなぎ美術館 学芸員(津奈木町政策企画課主幹) 楠本智郎

訪れた森本凌司の個展会場では、小さな作品と引き換えにテキストを募っていた。主宰者の勧めで、森本が拠点とするイギリスの地方の風景が印刷された布に刺繍を施した作品を持ち帰り、ときどき書斎で表面と裏面を交互に眺めている。
ロラン・バルトは、カメラのシャッターが切られた瞬間に時間は固定され、世界が一方向から切り取られるとし、写真の本質は、そこに写っているものの存在を証明する点にあると述べた。つまり、バルトの考えに従えば、写真は常に世界を一面的に切り取り、その背後に存在するかもしれない世界を不可視化してしまう。
しかし、森本はその裏に意識を向けた。異なる写真を2枚の布に印刷し、何も印刷されていない面同士を合わせる。どちらか一面を表と見立てて、布に針を刺し、糸を通し、刺繍を施す。表面から見ると、縫い目は布に印刷された像の形に寄り添っている。像の輪郭に沿うように、幾色もの糸が縫い重ねられた作品もあれば、無数の小さな断片の集積が全体としてひとつの像を作り上げるモザイクのように、色とりどりの糸で埋め尽くされた作品もある。いずれも、この表面だけを見れば、刺繍は写真の中の世界をなぞる行為に見える。ところが作品を裏返すと、同じ糸がまったく別の像の上に現れる。森本は、「反対側に糸がどう出るかはあまり意識していない」という。表面から針を刺し、裏面に回り、そこに出てきた糸の位置を確かめ、それに応答するように再び表面に向けて針を刺す。針が布を貫く行為の集積によって、糸は表面と裏面の異なる二つの世界の文脈を同時に担い、つなぎとめている。
さらに、バルトは1枚の写真の中で撮影者が意図しない無数の偶発的要素によって見る者を不意に「刺す」細部を「プンクトゥム」と呼び、それが存在する写真は高い価値を帯びて見えるといった。バルトが比喩として語った「刺す」という感覚を、森本は物理的な行為として実践している。刺繍は写真が固定しようとした時間に割り込み、封じ込められていた像を再び開き、新たな価値を生み出す。つまり、刺繍は布に印刷された二つの写真に「プンクトゥム」の生成を促しているともいえる。
針で布に刺繍を施す行為そのものの二重性も重要だ。森本自身は、針を刺す行為は祈りであると同時に暴力的だという。千人針のように誰かの無事を願う行為である一方、布の表面に穴をあけ、写された像を傷つけるという侵犯でもある。刺繍は像を豊かにするのではなく、像を一度壊すことで新たな関係の構築を促すのだ。こうして見ると、表と裏は単なる向きの違いではないことがわかる。どちらを先に見るかによって、もう一方の見え方が変わる。二つの面は対等でありながら、それぞれに異なる相貌を帯びている。
森本の刺繍は、写真の中のさまざまな関係が切り捨てられた像に針を刺し、裏面という別の世界へと糸を通すことで、固定された撮影者の視点を揺さぶる。鑑賞者は、どちらの面を最初に見るかを無意識のうちに選ばなければならない。どちらを選んでも、もう一方の面が常に意識の端に残り続け、完全には定まらない、たゆたうような感覚が続く。しかし、この感覚こそが、森本の写真と刺繍を用いた作品が鑑賞者に投げかける最も本質的な問いなのだ。針が布を貫くたびに、糸とともに作品の奥へと織り込まれた問いの答えは、容易には見つからないだろう。今日も書斎で表面と裏面を交互に眺めながら、森本が探し求める答えらしきものの輪郭が浮かび上がってくるのを静かに待っている。
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