小さな穴、次元の門

安藤行宥(アートマネージャー)

宋代の公案集である『無門関』では「只だ者の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり¹」と書かれており、禅宗において、「無」こそが入るべき門であることが書かれている。しかし「無」に入るとはどういうことだろう? 門の無いところに入門するというひとつの矛盾は、しかし無限の可能性を秘めている。この無限の可能性を秘めた矛盾は、森本の作品に共通する性質でもある。森本は、矛盾するような、あるいは不可能であるような概念そのものを物質として現勢化している。
布に印刷された2つの写真を、それぞれのイメージが表に出るように縫い合わせる。すると、表の裏がまた別の表になる。森本は印刷されたイメージ上からいくつかのオブジェクトを選び、その輪郭をなぞるように縫っていく。針と糸は裏から入って表に出ていき、表を通ってまた裏に出ていく。刺繡の痕跡は、表と裏にそれぞれ残る。森本が針と糸とで追っているオブジェクトの輪郭はそれぞれの表にしかないため、裏側のイメージ上には存在しないオブジェクトの輪郭が残ることとなる。
ここで、再び森本が刺繍をしている対象には裏が存在しないということを思い出してほしい。2枚の写真はそれぞれが表として固有のイメージを有している。しかし、そのイメージ上には反対側の画像の輪郭を縫った痕跡が同時に残っている。森本の平面作品においては、メビウスの帯と同様に、表裏の区別は存在しないと同時にどちらも表であり裏であるという構造を有している。
2次元のテープをひねるかたちで表裏の区別をなくしたメビウスの帯に対し、3次元のチューブをひねるかたちで表裏の区別をなくしたものがクラインの壺である。森本が平面を組み合わせて立体作品を制作するとき、そこにはクラインの壺のようなひねりが存在しており、そうした構造により表裏や境界、方向を決定することはできなくなっている。
映像と刺繍を組み合わせた新作は、この2次元・3次元の複雑に絡まった作品群に、さらに時間という新たな次元を加えたものだ。スクリーンにあらわれる無数の縫い跡は映像のなかのどこかであらわれるオブジェクトの輪郭である。しかし目まぐるしく変わる映像の中で、どの縫い跡がどのオブジェクトの輪郭なのかをすべて正確に把握することは難しい。映像は2種類あり、スクリーンの表と裏からそれぞれが交互に投影される。裏から映像が投影されるとき、これまで見えていなかった裏側の縫い跡が影として表にあらわれる。破線状であったはずの縫い跡は、裏から光を当てることで直線のようにみえる。
表裏や境界、方向のない森本作品に時間と光とが加わるとき、この作品群が表象しているのは宇宙そのものではないかと思わされるほどに構造は複雑化していく。一方で、宇宙のような途方もない複雑な構造に対し、作品からは夜空の星のような自然さ、あるいは素朴さも感じられる。
表裏のなさ、境界のなさ、方向のなさ、なにかしらの要素が「存在しない」ということがかえって宇宙的な途方もなさへとつながっていく。あるいはこれが「無門関」なのかもしれない。針と糸は、表も裏もないところに小さな穴をあけ、複雑に次元の絡まる宇宙へと飛び出していく。

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¹『無門関』西村恵信訳注, 岩波文庫, 1994
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