新しい「見る(縫う)」という鑑賞体験 

「縫う」という行為は、点(穴)で示した地点まで直線を繰り返して前進する。社会人類学者のティム・インゴルドは縫いながら線を生み出す行為を、生きることそのものに重ねる。時には迷い、考え、その都度決断を連続して、縫っていく線の軌跡はやがて面になる。森本本人と祖母の顔写真を無数の線で縫い込んだ作品は、様々な色の糸で縫い上げられた作品だ。顔は多くの場合その人の第一印象を決める。そんな場所を「縫う」という行為は、森本が時間をかけてその人物を理解しようとする時間そのものに感じた。線は様々な方向に行ったり来たりを繰り返す。色は時には青だったり赤だったりする。そして森本がその人物を理解しようとするように、鑑賞者はその作品に込められた森本の想いを理解しようとする。そのとき、鑑賞者が作品理解のため頼りにするのは、森本が時間をかけて縫い込んだ線の軌跡だ。縫うという行為は円運動が難しく、軌跡は直線になる。直線は強い意志と方向性を感じさせる。その線の軌跡に導かれるように目線を移動させていると、視線の軌跡が森本の縫う行為を追体験しているように、線を縫いながら鑑賞していることに気が付く。鑑賞体験そのものが、縫う行為となる。 
無秩序に線が縫い込まれた白布に、風景の断片的な映像が映し出された作品も、私たちの鑑賞体験が「縫う」行為そのものに似ていると感じさせる。最初見た時、縫いの凹凸が風景を見ることを邪魔しているように感じた。しかし変わっていく映像を縫いの軌跡を頼りに鑑賞していくと、その縫いの軌跡は地図のように、変わっていく風景の映像に新しい意味を与えていた。映像と縫いの軌跡との共存に違和感がなくなったとき、固定されているはずの縫いの軌跡が動いているように感じる瞬間があった。そしてこの作品は、白布の面を中心にして、両側に設置したプロジェクターで交互に映像を映すことで、全く違った線の軌跡を白布に浮き上がらせ、鑑賞者も立ち位置を変えることで、また違った風景と線との共存が浮かび上がるという、何層にもなった鑑賞体験が可能となる。 
これらの作品には、「布を「縫う」という行為が持つ「裏側」という線の軌跡」と「鑑賞者が能動的に「見る」行為を通して作品と関わる」ということが重要だと感じた。 
「縫う」という行為は、次の線を縫いたければ、裏面に必ず軌跡を作らなければならない。それは、普通は見せないものだ。しかし森本の作品では、その裏側の軌跡も作品の重要な要素として見せる。夢中になって表面の軌跡をコントロールしようとすればするほど、無意識の、知らない軌跡が生まれる。それを人間の二面性とすれば、顔写真を縫った作品は、表情という矢面に立つ人の印象の表面と裏面を象徴していると捉えることもできる。縫うという行為は針を刺し、穴を開けて前に進む。傷つけ、痛みを伴いながら、反発する布の抵抗を受けながら前に進む。そのことで出来上がるのが自身であり、血のつながりのある祖母の顔。血もまた、脈という線によって、家族をつなげる。 
映像の作品も同じように、布の両面に、縫いの軌跡が残る。その両面の軌跡は全く違うもので、それぞれに映像が投射されることで、風景は全く違ったものとして、鑑賞者は新しい「見る」ということを体験する。それは鑑賞者が、森本が生み出した縫いの軌跡を、どう追体験するか、鑑賞者の能動的な「見る」関わりが重要である。始まりも終わりもわからない森本の縫いの軌跡を、鑑賞者の時間の中で追体験することで、そこに織り込まれた面に、新たな意味が立ち上がるのである。 

遠山健一朗(奈義町現代美術館 学芸員) 
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