刺繍とダンス 〜森本凌司「揺らぐ痕跡」によせて 里村真理(熊本市現代美術館学芸員)
刺繍とはダンスかもしれない。AIR motomotoで開催された森本凌司「揺らぐ痕跡」の会場を巡ったのちに、浮かんできたイメージだった。
森本の刺繍作品の複数のシリーズが展示された会場には、無数のステッチが詰まっていた。糸を画材に、針を絵筆として、キャンバスである布に表現するのが森本作品だとするならば、針を使って布に糸を刺し、「縫う」という行為を経て、作品は人々の前に現れる。会場には、おそろしい数の「縫う」があり、そこに費やされた時間が、無数の身体運動の痕跡として刻まれている。その運動から、「縫う」身体の存在が濃密に立ち現れてくるのだ。
《Share》は、コロナ禍に日課のように制作された作品だという。イギリスにいる妻からメールで届く日常の写真と、自分のいる日本の日常の写真を出力した布を表裏に重ね、それぞれの側から風景をトレースするように刺繍する。二つの異なる風景が裏表に重なり、一方の風景がもう一方の風景に針と糸で介入していくことで出会う。刺繍によって、二つの風景の間にある距離は、森本が布に刺す針と糸によって(ある種、暴力的に)超えられてしまったかのように一瞬感じる。しかし、実際の肉体はそれぞれの風景のもとにあり、出会うことはできない。
でも、もし「縫う」ことが身体であるならば、風景の上に縫われた糸によって、もう一つの風景にその身体を存在させることになるのではないか。暴力性は、身を切るような祈りへと反転し、二つの遠く離れた風景を重ね合わせていくのである。
でも、もし「縫う」ことが身体であるならば、風景の上に縫われた糸によって、もう一つの風景にその身体を存在させることになるのではないか。暴力性は、身を切るような祈りへと反転し、二つの遠く離れた風景を重ね合わせていくのである。
裏面の風景を縫ったステッチは、もう片側の風景には、意味から解き放たれた線として現れる。
それは、まるで風景の中を自由に踊る身体のように見えてきはしないだろうか。
それは、まるで風景の中を自由に踊る身体のように見えてきはしないだろうか。
《Traces in Flux》は、日常に森本が撮り溜めた何気ない風景の映像が、無数のステッチのある布にプロジェクションされる作品だ。いや、無数のステッチは、その映像に現れる風景をトレースしたものである。揺れ動く風景がステッチとして縫い込まれた布は、まるでたくさんの交差する道が描かれた地図のようにも見えてくる。
私たちは、ステッチに視線を誘導される。
ステッチを目で追っていると、誰かがかつて風景を見た、その視線の痕跡を自分もまた辿っているように感じられてくる。
そう考えると、布の上にあるステッチは、複数の時間の視線の痕跡を描いているように思われる。空間を蠢く無数の視線がもし物理的に――虫が這った跡のように――残るとしたら、《Traces in Flux》のようになるのではないだろうか。
日常でも、きっとそうなのだ。いつかの誰かの視線と交錯して、私たちは空間を生きている。時間が異なるが故に視線は交わらない。けれど空間では交わっている。
ステッチを目で追っていると、誰かがかつて風景を見た、その視線の痕跡を自分もまた辿っているように感じられてくる。
そう考えると、布の上にあるステッチは、複数の時間の視線の痕跡を描いているように思われる。空間を蠢く無数の視線がもし物理的に――虫が這った跡のように――残るとしたら、《Traces in Flux》のようになるのではないだろうか。
日常でも、きっとそうなのだ。いつかの誰かの視線と交錯して、私たちは空間を生きている。時間が異なるが故に視線は交わらない。けれど空間では交わっている。
絵画が、画面の中にオブジェクトを配置して視線を誘導するのだとすれば、森本は、視線そのものを描いている。そして、その視線の痕跡を追う私たちは、布に重ねて投影される風景のなかを、風景から解き放たれて泳ぐことができるのだ。視線を振り付ける、コレオグラフとしての刺繍。
そういえば、《Share》は、本のように綴じられてもいて、手にとって鑑賞することができる。「本」の形をしているがゆえに、思わずめくってしまう。ああ、振り付けられてしまった。やられたとばかりに呟く。